東京高等裁判所 平成8年(行ケ)3号 判決 1998年9月29日
東京都品川区大崎1丁目6番3号
原告
日本精工株式会社
代表者代表取締役
関谷哲夫
訴訟代理人弁護士
久保田穰
同
増井和夫
訴訟復代理人弁護士
橋口尚幸
東京都港区六本木1丁目4番30号
被告
タカタ株式会社
代表者代表取締役
高田重一郎
訴訟代理人弁護士
小野明
同
弁理士 遠山勉
主文
特許庁が平成5年審判第1526号事件について平成7年12月11日にした審決を取り消す。
訴訟費用は被告の負担とする。
事実
第1 当事者の求めた裁判
1 原告
主文と同旨の判決
2 被告
「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決
第2 請求の原因
1 特許庁における手続の経緯
被告は、名称を「安全ベルト巻取装置」とする特許第1662858号、(昭和57年11月11日出願、平成3年4月24日出願公告、平成4年5月19日設定登録。以下「本件特許」といい、その発明を「本件発明」という。)の特許権者である。
原告は、平成5年1月22日、本件特許を無効とすることについて審判を請求をした。
特許庁は、この請求を同年審判第1526号事件として審理した結果、平成7年12月11日、「本件審判の請求は、成り立たない。」との審決をし、その謄本は、同月20日原告に送達された。
2 本件特許請求の範囲1の記載
フレームに回転可能に支承され、ベルト巻込力が付与された巻取軸と、該巻取軸に同軸的に取り付けられたラチェットホイールと、前記巻取軸に同軸的にしかし相対運動可能に取り付けられた慣性部材と、前記巻取軸に同軸的にしかし相対運動可能に取り付けられかっ巻取方向へ回転するようにばねカが付与された、内歯とカムスロットとを有するロックリング及び前記巻取軸と前記慣性部材との間に回転速度差が生じたとき、前記ロックリングの内歯に係合して前記ロックリングと前記巻取軸とを連結する係合手段を有するクラッチ機構と、前記フレームに揺動可能に支承され、前記ロックリングのカムスロットに受け入れられるカムフオロアを有し、前記ロックリングと前記巻取軸とが連結されたとき前記ロックリングのベルト引出方向への回転により前記ラチェットホイールと係合する動作位置へ揺動され、また前記ロックリングと前記巻取軸との連結が解かれたとき前記ロックリングのベルト巻取方向への回転により原位置へ揺動されるポールとを含み、前記カムスロットは、前記ポールが前記動作位置にある間に前記カムフオロアを運動させることなしに前記ロックリングの前記ベルト引出方向への回転を可能にする延長部分を有する、安全ベルト巻取装置。(別紙2第1図ないし第7図参照)
3 審決の理由
審決の理由は、別紙1審決書写し(以下「審決書」という。)に記載のとおりである。
4 審決の理由に対する認否
(1) 審決書2頁2行ないし3頁19行(手続の経緯、本件発明の要旨)、同3頁20行ないし6頁13行(請求人が主張する無効理由)及び同6頁14行ないし8頁12行(被請求人の主張)は認める(ただし、4頁18行、19行「エンドロックの解除で」は「エンドロックの解除と同じメカニズムで」の誤記と認める。)。
(2) 同8頁15行ないし9頁12行(無効理由(1)についての判断)は認める。
(3) 同9頁13行ないし13頁18行(無効理由(2)についての判断)のうち、11頁14行ないし13頁12行は争い、その余は認める。
(4) 同13頁19行ないし23頁10行(無効理由(3)についての判断)のうち、「およびこれによる慣性部材36の同方向への時間差を伴う回転により」(17頁3行、4行)は争い、同20頁2行ないし16行は、本件明細書にそのような記載があることは認め(ただし、それが正しいことは争う。)、21頁9行「たとえ」から17行は争い、22頁12行ないし23頁10行は争い、その余は認める。
(5) 同23頁11行ないし28頁2行(無効理由(4)についての判断)は争う。
(6) 同28頁3行ないし10行(無効理由(5)についての判断)は争う。
(7) 同28頁11行ないし16行(技術説明の要否)は争う。
(8) 同28頁17行ないし20行(むすび)は争う。
5 審決を取り消すべき事由
審決は、本件発明の明細書(以下「本件明細書」という。)の発明の詳細な説明の「前記カムスロットは、前記ポールが前記動作位置にある間に前記カムフオロアを運動させることなしに前記ロックリングの前記ベルト引出方向への回転を可能にする延長部分を有する」との記載は、特許法36条4項に違反し、また、本件発明は特許法29条1項柱書の産業上利用することができる発明に該当しないのに、この点の判断を誤ったものであり(無効理由(4)についての判断)、さらに、出願人の資格についての判断を誤ったものであるから(無効理由(5)についての判断)、違法なものとして取り消されるべきである。
(1) 取消事由1(特許法36条4項違反等)
審決は、本件特許請求の範囲1の末尾の、「前記カムスロットは、前記ポールが前記動作位置にある間に前記カムフォロアを運動させることなしに前記ロックリングの前記ベルト引出方向への回転を可能にする延長部分を有する」との構成は、実施不能であり、かつ、発明未完成であるから、本件明細書の発明の詳細な説明の記載は特許法36条4項に違反し、また、本件発明は特許法29条1項柱書の産業上利用することができる発明に該当しないとの点について、原告の主張はいずれも理由がない旨判断するが、誤りである。
<1> 慣性部材がロックリングを回転させる点
(a) 本件明細書中には、「本発明は、これを防止するために、ラチェットホイール24にポール26が係合していったんロック状態となったのちに、なお継続する慣性部材36の慣性回転を利用してロックリング34を回転させ、これにより爪50を内歯46から解除し、ロックリングの引続くばね力による復帰運動を可能にする」(甲第2号証の2第3頁37行ないし43行)と記載されているが、この記載の意味は、本件明細書全体の説明の中において不明である。 本件明細書中の実施例において、ロックが発生した状態(巻取軸は停止している)で慣性部材が更に引出方向に回転したとする。キャリヤ52は半径方向に移動できるだけであり、慣性部材はロックリングとは係合していないから、上記慣性部材の回転は、本件明細書第3図(別紙2第3図)のキャリヤ52上の突起68を同図の下方向に押す力として作用し、クラッチ機構の係合を解除する力として作用するが、キャリヤ52を介してロックリングの引出方向への回転を許す力として作用することはない。
(b) 審決は、キャリヤ52は半径方向に移動可能なのであるから、その限度でキャリヤ52に連動している慣性部材は回転可能であるといい、「このため、慣性部材36の回転に伴ってキャリヤ52が半径方向に移動し、キャリヤ52の爪50がロックリング34の内歯46に係合し、その結果、ポール26とラチェットホイール24が係合する・・・。」(審決書25頁13行ないし18行)と述べているが、この理由はロックが発生するための動作であり、その動作をもってロックを解除する機構の説明にすることはできない。
さらに、審決は、「本発明は、これを防止するために、ラチェットホイール24にポール26が係合していったんロック状態になったのちに、なお継続する慣性部材36の慣性回転を利用してロックリング34を回転させ、これにより爪50を内歯46から解除し、ロックリングの引き続くばね力による復帰運動を可能にする」(審決書27頁5行ないし11行)を引用するだけで、「慣性部材36がロックリング34を回転させる構成が示され(ている)」(同27頁13行、14行)と判断するが、公報のこの記載部分が正に実現不可能なものである。
<2> エンドロックの解除の点
(a) 本件明細書では、ロック状態となった後、わざわざ巻取軸を回転させなくても、自動的にエンドロックが起こらないことになっている(甲第2号証の2第3頁右欄ないし4頁左欄)。
(b) ところが、カムスロットの延長部分の作用は、せいぜいクラッチ機構の係合解除までであり、ポールとラチェットホイールの係合解除には寄与していない。
(c) そして、クラッチ機構の係合解除によりエンドロックがすべて解除されることが証明されていないことはもちろん、その回避率が高くなることすらも証明されていない。
山本藤夫らの1995年3月20日付け実験報告書(乙第2号証)は、延長部分のある製品とない製品の比較ではないこと、またこのような粗い実験に必然的に伴う実験のばらっきを考慮し、比較データ自身に実質的な差があるとは到底判断され得ないことから見て、本件発明の効果の証明にはなり得ないものである。
愼島純弘の平成8年12月17日付け実験報告書(甲第18号証)によれば、検乙第2号証の被告製品も、ベルトの収納時にエンドロック状態になり、自動的にこれを解除することはできない。このときにクラッチ機構の係合は解除されているが、エンドロック解除のためには役に立っていない。
<3> 乙第1号証に基づく被告の主張に対する反論
被告は、原告製品を使用して試験をしている足立孝らの鑑定書(乙第1号証)に基づく主張をするが、原告製品は本件発明の技術的範囲に属するものではないから、原告製品がどのような機構で作動するかということは、本件明細書の記載が実施可能かどうかとは関係のないことである。
すなわち、原告製品には、本件明細書の実施例に含まれている突起68が存在せず、慣性部材に相当するカップ状部材は、キャリヤ上にフリクションスプリングを介して摺動可能に保持されている。その結果、ベルト巻取終了時に巻取軸が引出方向に反転しても、カップ状部材は慣性により、慣性力がフリクションスプリングの摩擦力よりも大きい間は、巻取方向に摺動回転を続ける。他方、本件発明の実施例の慣性部材は、巻取軸の引出方向反転に追随して直ちに引出方向に反転し、その反転によりロックリングを回転させるものであると本件明細書に記載されている。
<4> 干渉部分の点
(a) 本件明細書には、ロックリングの内歯に干渉部分(若干の食い込み。別紙3図1b参照)があることも、その働きも全く説明されていないから、本件発明におけるクラッチ機構を干渉部分を有するものに限定する理由はない。そして、カムスロットの延長部分は、干渉部分を有しないものについては効果を奏しない。
そうすると、本件発明は、特許請求の範囲において何らかの限定をしない限り、作用効果を有しないものを含んでいる点において実施不能である。
(b) すなわち、巻取軸が引出方向に反転している間にクラッチ機構の係合が維持されているのは、キャリヤと突起68で係合している慣性部材がキャリヤに引っ張られているためである。他方、巻取軸が停止した場合は、慣性部材は依然として引出方向への慣性回転力を有しているから、今度は突起68を介してキャリヤを中心方向へ押し下げて、クラッチ機構の係合を解除する役割を果たすものである。ところで、キャリヤの爪とロックリングの内歯との関係が別紙3図2bのような構成の装置の場合であれば、キャリヤを中心方向へ押し下げることを妨げる力はほとんどないから、クラッチ機構の係合解除に延長部分は何ら寄与しない。
(c) 各国の技術基準等(乙第9号証の1ないし4)には、これらの基準が干渉部分の存在を要求していることを示す記載はない。記載されているのは、ベルトがロックされる場合の減速度あるいは加速度の基準である。
また、米国特許公報等(乙第10号証)として提出された23件の公知文献のうち、乙第10号証の6、12、13、14、16、21、23の7件のみが一応回転するロックリングを含むクラッチ機構における係合状態を図示しているが、これらの文献のいずれにも干渉部分があるか否か記載されていないし、図面自体不明瞭であり、干渉部分があると認めることはできない。しかも、7件とも、本件発明のキャリヤに相当する部材は回転する方式であって、本件発明のような直線方向にスライドする方式とは異なる。干渉部分が存在しないと認められる公知特許明細書の例として、甲第19及び第20号証(公開特許公報)ぶある。
さらに、岩浪繁蔵ら編著「機械設計(上)」(乙第12号証の1)は、単なるつめ車の説明であり、係合と解除を繰り返すクラッチ機構の参考にはならない。
(d) 被告は、本件発明は、少なくとも干渉部分が存在する場合には成立するのであるから、本件特許が無効とされる理由はないと主張し、養殖真珠法の発明の例を引用する。
しかしながら、養殖真珠法の例は、生物を対象とするものであるところ、生物の挙動については個体差があり、未解明の部分が多いため、100%の確実さをもって語ることはできない。しかも、養殖真珠の当初の成功率が1ないし2%であるとしても、それまではそもそもそのような試みがなかったのであるから、質的な変化である。また、1ないし2%は常に成功していたに違いなく、その限度で反覆可能性があったと考えることができる。
これに対し、本件発明は、機械の分野のものである。機械、装置の動きはニュートン力学の範囲に属し、ブラックボックスはない。その動きは100%の確実さをもって説明されなければならず、さもなければ設計などできない。
したがって、この点の被告の主張は理由がない。
<5> 余裕部分の点
ロックリングの内歯とキャリヤの爪の間に干渉部分が存在する場合に、クラッチ機構の係合を解除するためのロックリングの回転を許容するという作用について検討すると、その作用は、次の(a)ないし(c)のとおり、カムスロットに余裕があり又は余裕が生じる限り、従来製品に内在していたものであり、それをもって本件発明の効果とはなし得ない。すなわち、
(a) 別紙3図1bのような構成の装置において、ロックリングの回転は、本件発明の実施例におけるカムスロットの逆S字型の長い延長部分を必要としない。カムスロットに存在するごくわずかな余裕で足りる。そして、機械製品の製造においては寸法のばらつきが生ずるため余裕をもたせて製造するものであるから、この程度の余裕は、普通にカムスロットを形成した場合にも自然に生ずるものである(甲第9号証の2、第10号証、第12号証、第13号証)。したがって、余裕部分によって生ずる程度の回転は、延長部分を有しない普通のカムスロットであっても当然に有する機能であって、これを本件発明の延長部分の効果として主張することは誤っている。
(b) また、動的なエンドロック発生時は、装置各部材の高速回転がポールとラチェットホイールの衝突により強制的に停止させられる過程であり、衝撃による振動ないし揺動が発生することは当然である。カムフォロアが揺動すれば、カムフォロアがカムスロットの端面から離れた状態になう(別紙3図3参照)。仮にクラッチ機構の係合解除にカムスロットとカムフォロアの間に隙間が必要であるとしても、このように動的に発生する隙間も作用し得るものである。
(c) さらに、エンドロックが解除されるためには、クラッチ機構の係合が解除されるだけでは足りず、ある程度ベルトが巻き戻されることが必要である。ベルトが張り切った状態でロック状態になったときは、ベルトは巻き戻されず、エンドロックは解除されずに維持される。ベルトが弛んだ状態で、ポールとラチェットホイールが係合した場合、直ちにベルトは弛んだ分巻取バネにより巻き戻されるが、巻取軸が巻取方向に回転し、ロックリングもこれに従動して巻取方向に回転する結果、カムフォロアとカムスロット終端の間に隙間ができる(別紙3図3参照)。この図3の状態においては、別紙3図1bのような構成の装置において、カムスロットの延長部分があらかじめ全く存在しない場合でも、回転によって生じた隙間がロックリングの退避を許容するので、クラッチ機構の係合解除には何ら支障はない。
(2) 取消事由2(出願人資格についての判断の誤り)
審決は、「請求人は、真の発明者を特定しておらず、また、特許を受ける権利を承継していないことを直接立証する証拠方法も提出されていないから、請求人の主張は採用できない」(審決書28頁6行ないし10行)と判断するが、誤りである。
<1> 被告は、本件発明の発明者は北居であり、北居から被告へ特許を受ける権利が承継された旨主張するが、本件取消訴訟段階になって初めてそのような主張をすることは許されない。
<2> 仮に北居からの承継の点を主張することができるとしても、北居からの特許を受ける権利の承継が一片の陳述書(乙第7号証)で立証されたと認めることは到底できない。
第3 請求の原因に対する認否及び反論
1 認否
請求の原因1ないし3は認め、同5は争う。審決の認定、判断は正当であって、原告主張の誤らはない。
2 反論
(1) 取消事由1(特許法36条4項違反等)について
<1> エンドロックの発生及び解除のメカニズム
(a) 別紙2の実施例により説明すると、装置から引き出したベルトを放すと、板ばね20により回転する巻取軸18に巻き取られる。
ベルト巻取りが終了して巻取軸18がばね力による回転を一旦停止しても、慣性部材36は慣性により時計方向への回転を継続する。ベルトは織布からなり、伸縮性を有する。このため、ベルト巻取終了時直ちに巻取軸18が停止するのではなく、更に巻取軸18がベルトをきっく締めつける(ベルトを引き延ばす)ように回転してから停止する。
すると、慣性部材36と巻取軸18との回転速度差が生じ、時計方向に回転する慣性部材36のディスク部72により、開口74の縁部でキャリヤの突起68が押され、キヤリヤ52が半径方向の外側へと移動し、キャリヤの爪50がロックリングの内歯46に噛合する。この結果、ロックリング34と巻取軸18とが一体に連結される。
さらに、巻取軸18にきつく巻き付いて引き延ばされていたベルトが縮んで弛もうとするので、巻取軸18が反転する。この回転により、キャリヤ52もベルト引出方向に回転し、キャリヤの爪50に内歯46が噛合しているロックリング34もまた、キャリヤ52とともにベルト引出方向に回転する。すると、ロックリング34のカムスロット48がポール26のカムフォロア30を案内し、ラチェットホイール24の歯にポール26を係合させる。この係合状態が維持されるとエンドロックとなる。
このとき、カムスロットに延長部分48aが存在すればロックリング34の引出方向への回転を許容し、延長部分48aにカムフォロア30が進入することで、クラッチ機構の係合を解除する。
(b)ア 原告製品についてエンドロック回避動作の実験結果である足立孝らの鑑定書(乙第1号証)によれば、エンドロックの際、ベルトが弛んだり巻き戻されたりする現象が生じ、その現象の下において、カムスロットの延長部分が作用することで、エンドロックを回避できる。すなわち、従来は、ロック解除のために相当のベルト巻戻し、すなわち巻取軸の回転を必要としたのに対し、本件発明では、カムスロットの延長部分が存在するためクラッチ機構の係合が解除され、その結果、わずかな巻取軸の回転によりロックを回避できるものである。
イ 原告製品は、本件発明の構成要件を満たしている。すなわち、原告製品では、フリクションスプリング屈曲部がキャリヤの2つの穴部に受け入れられた構成であり、この屈曲部と穴部とは、慣性部材の開口部74とキャリヤの突起68とに対応し、エンドロック回避に至る挙動も本件発明とほぼ同一である。
ウ 原告は、被告製品(検乙第2号証)についての実験結果(槇島純弘の平成8年12月17日付け実験報告書-甲第18号証)に基づき、クラッチ機構の係合は解除されるにもかかわらず、エンドロックは発生すると主張する。しかし、ベルトを引出方向に引っ張ったままであると、ポールとラチェットホイールの係合状態がそのまま維持されるから、エンドロックが解除されないのは当然であり、原告の上記主張は理由がない。
<2> 作用の誤認の点について
発明の客観的構成が明らかであれば、発明者の知不知に関わらず、所定の作用に従って所定の効果を奏するものであり、たとえ発明者に作用について誤認あるいは不知の点があったとしても、それをもって本件明細書が当業者に実施可能なように記載されていないことにはならない。
<3> 干渉部分の点について
(a) 原告は、本件発明は、干渉部分を有しないものについては効果を有しないから、効果を有しない部分を含んでいる点において実施不能である旨主張するが、原告の別紙3図1b、図2bをもってする主張は審判段階でされていないから、本件取消訴訟において主張することはできない。
(b) 仮に上記主張が許されるとしても、別紙3図2bのような場合、別紙3図1bの場合に比較して、係合力が弱く、通常ロックの作動が不安定となるおそれがある。そこで、安全ベルト巻取装置の設計において、別紙3図1bのようにロックリングの内歯に干渉部分(若干の食い込み)があるように設計することが本件発明の出願当時の技術常識であった。すなわち、この点は、クラッチの性能についての各国の技術基準等(乙第9号証の1ないし4)、本件発明の出願時の特許公報等の技術資料(乙第10号証の1ないし23)及び岩浪繁蔵ら編著「機械設計(上)」(乙第12号証の1)の172頁、174頁の記載等から明らかである。原告の主張は、現実にあり得ない装置を前提に本件発明を議論するものであり、失当である。
(c) 仮に安全ベルト巻取装置の設計において干渉部分があるように設計することが本件発明の出願当時の技術常識であったとは認められないとしても、本件発明は、少なくとも干渉部分が存在する場合には成立するのであるから、本件特許が無効とされる理由はない。このことは、確実性の問題であり、仮に確実性の低い場合であっても発明たるを失わないからである(乙第13号証一養殖真珠法の発明参照)。
原告は、生物の分野と機械の分野の違いを主張するが、生物の分野であろうが、機械の分野であろうが、自然法則を利用した技術的思想であれば、その自然法則という部分において、ある一定の条件がそろえば、必ずある結果ないし効果が生ずるものである。養殖真珠の場合、明細書の記載に従って実施してみたところ、1ないし2%の成功率であったということは、当初認識していた条件に加え、成功させるための何らかの条件が必要であったことがうかがえる。その付加条件が何であるかはともかく、当業者が当時通常使用していた養殖の環境において、発明を再現すれば、1ないし2%の成功率で真珠を得ることができたのであれば、それはそれで反覆して実施できたことを意味する。
機機械の分野でも、明細書にその発明に係る技術の反覆可能性を100%とする条件をすべて記載することは、事実上不可能である。例えば、機械の作動する環境の条件の問題があり、常温下で作動する発明品を南極等の低温下で作動しようとしたところ、部材の収縮等で動かなくなる場合がある。また、本件発明のように、高速度カメラで子細にその動作状況を調べてはじめてその挙動が解析されるような分野にあっては、たとえ発明者であっても、100%その挙動のすべてを解析することは不可能であり、その意味で正しく生物の分野と同様である。
<4> 余裕部分の点について
原告は、甲第9号証の2等には製造上の余裕部分があり、それが延長部分と同様の機能を果たしている旨主張するが、甲第9号証の2や甲第10号証のように、カムフォロア上におけるロックリングの回転円周に交わる直線上のカムスロットでは、たとえその直線端部に延長した部分があったとしても、その延長した部分は、ロックリングの回転円周に沿う方向に向いていないため、延長した部分の側壁はなおガイド機能を有し、ロックリングの回転許容機能を奏することはない。また、カムスロットの幅がカムフォロアの直径より大きかったとしても、その側壁がガイド機能を果たしている以上、エンドロックが発生しようとするとき、側壁とカムフォロアとが当接していて何らの余裕がないので、ロックリングの回転許容機能は果たし得ない。
(2) 取消事由2(出願人資格についての判断の誤り)について
<1> 本件発明の発明者は、被告の従業員である北居幸太郎であるが、本件特許出願時、北居、高田重一郎及び被告の間において、本件発明につき、発明者を高田、出願人を被告とすることの了解がされ、その了解に基づき本件出願がされたものである(乙第7号証)。
<2> そうすると、被告は、本件発明につき特許を受ける権利を北居から正当に譲り受けたものであり、この点の原告の主張は理由がない。
第4 証拠 証拠関係は、本件記録中の書証目録に記載のとおりである。
理由
1 請求の原因1(特許庁における手続の経緯)、同2(本件特許請求の範囲1の記載)及び同3(審決の理由の記載)については、当事者間に争いがない。
2 まず、原告主張の取消事由1、すなわち審決の無効理由(4)についての判断(特許法36条4項違反等の点)に誤りがあるか否かについて検討する。
(1) 本件明細書の記載
<1> 成立に争いのない甲第2号証の2によれば、本件明細書の発明の詳細な説明には、次のとおり記載されていることが認められる。
(a) エンドロックの発生について
「巻取方向へ回転するようにばね力が与えられている巻取軸と該巻取軸に相対回転可能に取り付けられた慣性部材との間に速度差による相対回転が生じたとき、巻取軸に同軸的に取り付けられたラチェットホイールにポールを係合させて巻取軸の回転を阻止するクラッチ機構を備える型式の従来の安全ベルト巻取装置においては、ベルトの一端がバックルから解放され、巻取軸に巻き取られて格納を完了したとき、その後のベルト引出しを不能にするいわゆるエンドロックが発生する場合がある。このエンドロックは、ベルトの巻き取りが終了して巻取軸がばね力による回転を一旦停止したのちもなお継続する慣性部材の慣性回転、これによるクラッチ機構め作動、巻取軸の反動による逆方向すなわち引出方向への回転及びこれによる慣性部材の回転方向の逆転により、クラッチ機構がラチェットホイールにポールを係合させかつクラッチ機構がこの作動状態を維持させられることによって生じる。この状態下では、巻取軸は引き出し方向へ回転を阻止されており、ベルトを引き出すことはできない。」(1頁右欄16行ないし2頁左欄17行)
(b) 本件発明の目的
「本件発明の目的は、安全ベルト巻取装置の作動を確実にすることであり、特に、ベルトの格納時におけるエンドロックの発生を防止することにあり、また衝撃のような外力による不測のロックの発生を防止することにある。本発明は、ラチェットホイールにポールを係合させかつ両者の係合を解くように作動するクラッチ機構のロックリングがラチェットホイールとポールとの係合状態下で追加的に回転できるように、また、ポールの不測の運動を阻止するように、カムスロットを構成することにより、上記の目的を達成する。」(2頁左欄23行ないし34行)
(c) ラチエットホイールとポールとの係合を解除するロックリングの追加的な回転について
「カムスロットは、前記ポールが前記動作位置にある間に前記カムウォロアを運動させることなしに前記ロックリングの前記ベルト引出方向への回転を可能にする延長部分を有する。この延長部分がラチェットホイールとポールとが係合状態にある間に慣性部材の慣性回転によるロックリングの引出方向への回転を許し、該ロックリングの回転によりその内歯と前記係合手段との係合が解かれ、ロックリングがばね力により巻取方向へ回転復帰し、この際にカムフォロアを運動させて、ポールとラチェットホイールから外し、その後の巻取軸の回転すなわちベルトの引出しを自由にする。」(2頁右欄11行ないし23行)
(d) 実施例
「このカムフォロアは、ポールがラチェットホイール24と係合していない図示の原位置にあるとき、スロット48の一方の端部に位置している。これは、図示しないばねにより、ロックリング34が時計方向すなわちベルト巻取方向への回転傾向を与えられていることによる。」(3頁左欄24行ないし29行)
「内歯46及びカムスロット48を有するロックリングと爪50及び突起68を有するキャリヤ52とはクラッチ機構を構成し、巻取軸18と慣性部材36との間に回転速度差が生じたとき、キャリヤ52がばね66に抗して連動し、爪50が内歯46に噛合し、その結果ロックリング34がばね力に抗して巻取軸18と同じ方向すなわち第3図(別紙2第3図参照)に矢印で示すベルト引出方向へ回転し、その際にカムフォロア30をカムスロット(「カムフォロア」は誤記と認める。)48のカム面に沿って運動させることによりポール26はラチェットホイール24の歯に係合し、これによりラチェットホイールの回転が阻止されることから巻取軸18のベルト引出方向への回転は阻止される。」(3頁右欄10行ないし23行)
「ベルトの格納時に、ばね力による巻取軸18の回転と慣性部材36の慣性回転との間に速度差が生じたとき、前記したように、ラチェット機構の作動と巻取軸の反動によるベルト引出方向への逆転によってエンドロックが生じる。本発明は、これを防止するために、ラチェットホィール24にポール26が係合していったんロック状態となったのちに、なお継続する慣性部材36の慣性回転を利用してロックリング34を回転させ、これにより爪50を内歯46から解除し、ロックリングの引き続くばね力による復帰運動を可能にする。このために、カムスロット48は、第5図(別紙2第5図参照)に示すように、ポール26がラチェットホィール24に係合したときのカムフォロア30の占める位置がカムスロットの両端間にあるように、長さeの延長部分48aを有する。この延長部分48aの存在により、ロックリング34はカムフォロア30を全く運動させることなく、従って、ポールをラチェットホイールに係合させたまま、第6図(別紙2第6図参照)に示すように延長部分48aの端部がカムフォロァ30に当るまで、ベルト引出方向すなわち反時計方向へ回転することができる。慣性部材36が静止して内歯46と爪50との係合が解かれたとき、ロックリング34は拘束を解かれてばね力により時計方向へ回転し、ポール26をラチェットホイール24との係合動作位置から、非係合の原位置へ移動させる。従って、エンドロックは防止され、ベルトは格納後いっでも引き出すことができる。」(3頁右欄33行ないし4頁左欄17行)
<2> 上記をまとめれば、本件明細書には次のように記載されているものである。すなわち、
エンドロックの発生については、ベルト格納時に、巻取軸は反動によりベルト引出方向へ逆回転するが、巻取軸18の回転と慣性部材36の慣性回転との間に速度差が生じたとき、キャリヤ52の爪50とロックリングの内歯46とが係合し、ロックリングが巻取軸とともにベルト引出方向に回転し、その際カムフォロア30をカムスロット48のカム面に沿って運動させ、ポール26をラチェットホイール24の歯に係合させることにより、エンドロックが発生する。
エンドロックの解除については、一旦エンドロック状態になった後になお継続する慣性部材36の慣性回転を利用してロックリング34をベルト引出方向に回転させることによりクラッチ機構を解除し、その後のロックリング34のばね力による復帰運動を可能にすることにより、エンドロックの解除が行われる。
延長部分48aは、その存在により、カムフォロア30がロックリング34のベルト引出方向への回転を阻止しないようにするものである。
(2) 乙第1号証(足立孝らの鑑定書)について
<1> これに対し、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第1号証(足立孝らの平成7年5月30日付け鑑定書)及び弁論の全趣旨により被告主張のとおりのビデオテープと認められる検乙第1号証によれば、本件明細書の実施例に記載されたベルト巻取装置と乙第1号証の実験の対象とされたベルト巻取装置(原告製品)とは、前者が慣性部材36のディスク部72の開口74にキャリヤの突起68を受け入れているのに対し、後者は慣性部材に相当するカップ状部材がフリクションスプリングによって摺動可能に保持され、フリクションスプリングの端部はキャリヤに連結している点を除き、構成が一致しているものと認められる。
そして、前記乙第1号証及び検乙第1号証によれば、後者のフリクションスプリングは、カップ状部材を摺動しながらカップ状部材の慣性回転をその端部でキャリヤに伝え、キャリヤの爪をロックリングの鋸歯状歯に係合離脱させるよう働きかけるものであるから、突起とフリクションスプリングとの違いによる力の及ぼし方が異なるものの、キャリヤの爪を係合離脱するよう働きかける機構を有する点で、前者のベルト巻取装置と共通するものであると認められる。
原告は、原告製品には、本件明細書の実施例に含まれている突起68が存在せず、慣性部材に相当するカップ状部材は、キャリヤ上にフリクションスプリングを介して摺動可能に保持されているため、ベルト巻取終了時に巻取軸が引出方向に反転しても、カップ状部材は慣性により、慣性力がフリクションスプリングの摩擦力よりも大きい間は、巻取方向に摺動回転を続けるが、本件発明の実施例の慣性部材は、巻取軸の引出方向反転に追随して直ちに引出方向に反転し、その反転によりロックリングを回転させるものであると本件明細書に記載されていると主張するが、乙第1号証及び検乙第1号証によれば、原告製品のカップ状部材は自らの慣性により慣性回転するよう取り付けられており、カップ状部材の巻取軸に対する相対回転によりキャリヤの爪を係合離脱するように働きかける点で本件明細書に記載のものと共通するものと認められるから、原告の上記主張は採用することができない。
<2>(a) 前記乙第1号証のその静的解析結果(7頁23行ないし10頁18行)によれば、ロックリングの内歯に干渉部分を有する原告製品では、
ⅰ)クラッチ機構が解除されない場合には、ロックを解除するために、巻取軸を巻取方向へ12°以上回転させる必要があること、 ⅱ)クラッチ機構が途中で解除される場合には、巻取軸を巻取方向へ約3°回転させるだけでロックが解除できること、
ⅲ)このクラッチ機構の解除には、ロックリングがロック状態における位置よりも更に引出方向に回転する必要があるから、カムスロットの空間部分(機能的には、本件発明の「延長部分」に相当する。以下、同じ。)がなければ、引出方向への回転ができず、クラッチ機構は解除できないこと、
ⅳ)以上により、カムスロットの空間部分の効果によりクラッチ機構が解除されれば、巻取軸が巻取方向へ約3°回転するだけでロックが解除できること、
が認められる。
(b) 次に、前記乙第1号証の動的解析結果(10頁19行ないし13頁8行)中の巻取実験2によれば、
ⅰ)ベルトを2回転分だけ引き出して静かに離すと、巻取軸は巻取方向へ2回転し、一旦スタート位置を越えてから引出方向へと反転する。このときカップ状部材は巻取方向へ回転しているためクラッチ機構が係合し、巻取軸が5°の位置でロックすること、
ⅱ)その後、巻取軸はポールの爪とラチェットホイールの歯底が噛み合う位置である5°を上限として振動する。カップ状部材も巻取軸とほぼ連動して運動する。この段階まではクラッチ機構は解除されない。
ⅲ)巻取軸はロック発生後2回目の引出方向への反転をし、5°の位置でほぼ停止しているが、こめ間カップ状部材は回転を続け、更に15°引出方向へ回転する。このカップ状部材の15°の引出方向への回転によりクラッチが解除されること、
ⅳ)その後、巻取軸が3°以上巻取方向へ回転することにより、上記静的解析結果ⅱ)の条件を満たし、ロックが解除されること、
が認められる。
(c) 前記乙第1号証のエンドロック解除実験(13頁9行ないし14頁16行)によれば、
クラッチ機構が係合しているエンドロック状態で、ロックが解除されない程度にベルトを弛め、急激にベルトを引出方向へ引くと、巻取軸も引出方向へ回転し、クラッチ機構を介してロックリングも引出方向へ回転すること、
そして、ポールの爪がラチェットホイールの歯底に達したところで、巻取軸の引出側回転は急停止するが、巻取軸とともに引出方向へ回転しているロックリングはカムスロットに空間部分があるため、慣性によって引出方向への回転を続け、クラッチ機構が解除されること、
が認められる。
(d) 以上の乙第1号証における検討結果によれば、ロックリングの内歯に干渉部分を有する原告製品では、
エンドロック発生後にポールの爪とラチェットホイールの歯底が噛み合う位置を上限として巻取軸が巻取方向及び引出方向に5°振動し、カップ状部材もやや遅れて巻取軸にほぼ連動して振動し、
巻取軸が引出方向に反転し5°の位置でほぼ停止している間、カップ状部材が回転を続け更に15°引出方向に回転し、クラッチ機構を押し下げ、巻取軸とともにクラッチ機構を介して引出方向へ回転していたロックリングは、カムスロットに空間部分があるため、巻取軸が一旦停止しても慣性によって引出方向への回転を続け、その結果、クラッチ機構が解除され、
その後、巻取軸が継続していた振動により巻取方向に3°以上回転することによりロックが解除される
ものと認められる。
(3) 乙第2号証(山本藤夫らの実験報告書)について
次に、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる乙第2号証(山本藤夫らの1995年3月20日付け実験報告書)によれば、実験用架台下部の基台に原告製品を取り付け、実験用架台のフレーム上部にベルト端部を固定し、フレーム上部においてベルトとフレームとの間にクッション材を介在させて行った実験結果によれば、延長部分を有する装置の場合はエンドロック発生率は63.6%、回避率は36.4%で、差し引き発生率は27.2%であり、延長部分のない装置の場合のエンドロック発生率は74.8%、回避率は25.2%で、差し引き発生率は49.6%であることが認められ、この事実によれば、ベルト巻取装置において、カムスロットに延長部分を設けることによりエンドロックの発生防止又は回避を完全に行うことはできないが、その発生防止又は回避の率を高めるものであることが認められる。
なお、原告は、乙第2号証は、延長部分のある製品とない製品の比較ではないこと、また、このような粗い実験に必然的に伴う実験のばらつきを考慮し、比較データ自身に実質的な差があるとは到底判断され得ないことから見て、本件発明の効果の証明にはなり得ないものであると主張するが、前者の点については、乙第2号証の実験では、原告製品のままのカムスロットを有するものと、原告製品のカムスロットを一度樹脂で埋め、カムスロットを小さくしたものとで比較しているから(3頁1行ないし9行)、この点の原告の主張は採用することができないし、後者の実験のばらつきの点についても、両者それぞれ1万回の実験を行っており(5頁)、その回数に不足はないと考えられる上、クッション材の弾性力の設定によって実験結果にどのような影響を与えるかの点も説明されているから(5頁下から6行ないし6頁10行)、この点の原告の主張は採用することができない。また、原告提出の槇島純弘の平成8年12月17日付け実験報告書(甲第18号証)も、上記認定と矛盾するものではない。
(4) 慣性部材がロックリングを回転させる点及びエンドロックの解除の点について
<1> 前記乙第1号証及び検乙第1号証の検討結果によれば、本件発明に記載のもののうち、ロックリングの内歯に干渉部分を有するものにおいても、ラチェットホイールにポールが係合してエンドロックが発生し、巻取軸が一旦停止している問、慣性部材が更に引出方向に回転することによりクラッチ機構を押し下げ、巻取軸とともにクラッチ機構を介して引出方向に回転していたロックリングは、カムスロットに延長部分があるため、巻取軸が一旦停止してもロックリング自体の慣性によって引出方向への回転を続けることにより、干渉部分により妨げていたクラッチ機構の解除を可能とし、引き続く少しの巻取軸の巻取方向への回転によりポールのラチェットホイールとの係合を解除するものと認められる。しかし、前記乙第2号証(山本藤夫らの実験報告書)の検討結果によれば、本件発明におけるカムスロットの延長部分の効果は、エンドロックの回避率を高めるものではあるが、その発生防止又は回避を100%近く確実に行えるものではないことが明らかである。
そして、甲第2号証の2によれば、本件明細書には、他の箇所を見ても、前記乙第2号証のような実験結果の記載やカムスロットの延長部分の効果がエンドロックの発生防止又は回避の率を高めるものにすぎないことをうかがわせる記載はなく、かえって、「本発明の目的は、安全ベルト巻取装置の作動を確実にすることにあり、特に、ベルト格納時におけるエンドロックの発生を防止することにあり、」(甲第2号証の2第2頁左欄23行ないし26行)、「慣性部材36が静止して内歯46と爪50との係合が解かれたとき、ロックリング34は拘束を解かれてばね力により時計方向へ回転し、ポール26をラチェットホイール24との係合動作位置から、非係合の原位置へ移動させる。従って、エンドロットは防止され、ベルトは格納後いつでも引き出すことができる。」(同4頁左欄10行ないし17行)とエンドロックの発生防止又は回避を完全に行える旨記載されていることが認められるのであり、この点に関する記載内容は誤りというべきである。
そうすると、本件発明がロックリングの内歯に干渉部分を有するもののみを対象としたものだとしても、当業者は、本件明細書にカムスロットの延長部分の効果がエンドロックの発生防止又は回避を完全に行えるものではないこと(すなわち、エンドロックの発生防止又は回避の率を高めるにすぎないこと)又はこれを示唆する記載がないために、エンドロックの完全な発生防止又は回避を求めて限りない実験を行わざるを得ないこととなるから、本件明細書の発明の詳細な説明中の「前記カムスロットは、前記ポールが前記動作位置にある間に前記カムフォロアを運動させることなしに前記ロックリングの前記ベルト引出方向への回転を可能にする延長部分を有する」(甲第2号証の2第2項右欄11行ないし15行)との記載は、当業者が容易に実施をすることができる程度にその発明の目的、構成及び効果が記載されたものではなく、特許法36条4項(昭和62年法律第27号による改正前の特許法36条3項)に違反していると解さざるを得ない。
したがって、当業者が本件発明を実施することができないとする主張を理由がないものとした審決の判断は、誤りというべきである。
<2> 被告は、発明の客観的構成が明らかであれば、発明者の知不知に関わらず、所定の作用に従って所定の効果を奏するものであり、たとえ発明者に作用について誤認あるいは不知の点があったとしても、それをもって本件明細書が当業者に実施可能なように記載されていないことにはならないと主張するが、前記のとおり、本件明細書の発明の詳細な説明の記載は、単に本件発明の構成から生ずる作用の経過の認識を誤ったというものではなく、効果の記載そのものが誤ったものであり、効果の記載には誤りはなく作用の経過の認識のみができなかった場合とは異なるから、被告の上記主張は、その前提を欠き、採用することができない。
<3> なお、本件明細書中の「いったんロック状態となったのちに、なお継続する慣性部材36の慣性回転を利用してロックリング34を回転させ」(甲第2号証の2第3頁右欄39行ないし41行)との部分も、慣性部材36がロックリング34を回転させることはないのであるから誤りであるが、慣性部材がロックリングを回転させるか、ロックリングがそれ自体の慣性により回転するかの違いが、本件において当業者が本件発明を容易に実施をすることを困難にしていると認めるに足りる証拠はない。
(5) 結論
審決の上記(4)<1>の判断の誤りが審決の結論に影響することは明らかであるから、原告主張の取消事由1は、その余の点について判断するまでもなく、理由がある。
したがって、取消事由2について判断することなく、本訴請求は理由があるものとして認容することとする。
3 よって、訴訟費用の負担について行政事件訴訟法7条、民事訴訟法61条を適用して、主文のとおり判決する(平成10年9月10日口頭弁論終結)。
(裁判長裁判官 永井紀昭 裁判官 石原直樹 裁判官 市川正巳)
平成5年審判第1526号
審決
東京都品川区大崎1丁目6番3号
請求人 日本精工 株式会社
東京都千代田区内神田2-15-4 司ビル 久保田・増井法律事務所
代理人弁理士 久保田穣
東京都港区六本木1丁目4番30号
被請求人 タカタ 株式会社
東京都中央区東日本橋3丁目4番10号 ヨコヤマビル6階 秀英国際特許事務所
代理人弁理士 遠山勉
東京都中央区東日本橋3丁目4番10号 ヨコヤマビル6階 秀英国際特許事務所
代理人弁理士 松倉秀実
上記当事者間の特許第1662858号発明「安全ベルト巻取装置」の特許無効審判事件について、次のとおり審決する。
結論
本件審判の請求は、成り立たない。
審判費用は、請求人の負担とする。
理由
1. 手続の経緯、本件発明の要旨
本件特許第1662858号発明(以下、「本件発明」という)は、昭和57年11月11日に出願した特願昭57-196792号であって、平成3年4月24日に出願公告(特公平3-29622号公報参照)された後、平成4年5月19日に設定登録されたものであり、その後願書に添付された明細書を訂正をすることについての審判請求(平成4年審判第13565号)を認容する(特許審判請求公告第757号公報参照)審決が確定しているので、本件発明の要旨は、訂正された明細書および図面の記載からみて、その特許請求の範囲1に記載された次の事項にあるものと認められる。
「1 フレームに回転可能に支承され、ベルト巻込力が付与された巻取軸と、該巻取軸に同軸的に取り付けられたラチエットホイールと、前記巻取軸に同軸的にしかし相対運動可能に取り付けられた慣性部材と、前記巻取軸に同軸的にしかし相対運動可能に取り付けられかつ巻取方向へ回転するようにばね力が付与された、内歯とカムスロットとを有するロックリング及び前記巻取軸と前記慣性部材との間に回転速度差が生じたとき、前記ロックリングの内歯に係合して前記ロックリングと前記巻取軸とを連結する係合手段を有するクラッチ機構と、前記フレームに揺動可能に支承され、前記ロックリングのカムスロットに受け入れられるカムフオロアを有し、前記ロックリングと前記巻取軸とが連結されたとき前記ロックリングのベルト引出方向への回転により前記ラチェットホイールと係合する動作位置へ揺動され、また前記ロックリングと前記巻取軸との連結が解かれたとき前記ロックリングのベルト巻取方向への回転により原位置へ揺動されるポールとを含み、前記カムスロットは、前記ポールが前記動作位置にある間に前記カムフオロアを運動させることなしに前記ロックリングの前記ベルト引出方向への回転を可能にする延長部分を有する、安全ベルト巻取装置。」
2. 請求人が主張する無効理由
これに対して、審判請求人(以下、「請求人」という)は、概略、次の(1)ないし(5)の無効理由を主張している。
(1) 本件発明の訂正前の明細書の特許請求の範囲1の、「前記ロックリングと前記巻取軸とが連結されたとき前記ロックリングのベルト巻取方向への回転により前記ラチェットホイールと係合する動作位置へ揺動され、」(公報第1欄第15行ないし同欄第18行)は実施例に裏付けがなく、また、本件発明の発明の詳細な説明にはかかる構成要件の構成を当業者が容易に実施できる程度に記載していないから、本件発明は、特許法36条第4項の規定により特許を受けることができない。よって、本件発明は、同法第123条第1項第3号に該当する。
(2)本件発明の明細書の発明の詳細な説明に照らせば、本件発明は、通常ロックとその解除がエンドロックとその解除と全く同じであるから、エンドロックの解除で通常ロックも解除されてしまうことになり、安全ベルトとして働きをなさず、したがって産業上利用することができる発明といえないから、本件発明は、特許法第29条第1項柱書きの発明に該当しない。
よって、本件発明は、同法第123条第1項第1号に該当する。
(3)本件発明の明細書の特許請求の範囲1には、慣性部材36とロックリング34につき発明の構成に欠くことができない事項が記載されていないから、特許法第36条第5項の規定により特許を受けることができない。
よって、本件発明は同法第123条第1項第3号に該当する。
(4)本件発明の明細書の特許請求の範囲1の末尾の、「前記カムスロットは、前記ポールが前記動作位置にある間に前記カムフオロアを運動させることなしに前記ロックリングの前記ベルト引出方向への回転を可能にする延長部分を有する」(公報第1欄第21行ないし同欄第25行)にかかわる構成は、実施不能であり、かつ、発明未完成である。
よって、本件発明の明細書の発明の詳細な説明には、当業者が容易に実施をすることができる程度にその発明の目的、構成および効果が記載されていないから特許法第36条第4項に違反している。また、本件発明は、特許法第29条第1項柱書きの産業上利用することができる発明に該当しない。したがって、本件発明は同法第123条第1項第3号に該当する。
(5)本件発明の発明者は、真の発明者ではなく、また、本件発明は、特許を受ける権利を承継していない出願に対して与えられたものであるから、本件発明は、同法第123条第1項第1号または第4号に該当する。
3. 被請求人の主張
一方、被請求人は、請求人が主張する上記無効理由(1)ないし(5)について、概略、次のように答弁している。
(1)について
本件発明の明細書の特許請求の範囲1の、「前記ロックリングと前記巻取軸とが連結されたとき前記ロックリングのベルト巻取方向への回転により前記ラチェットホイールと係合する動作位置へ揺動され」(公報第1欄第15行ないし同欄第18行)における「ベルト巻取方向」は、「ベルト引出方向」の単なる誤記であり、無効理由にはあたらない。
(2)について
本件発明の、通常ロックと通常ロックの解除は、エンドロックとエンドロックの解除と同じであるとする請求人の主張は、誤解に基づくもので、通常ロックとエンドロックを同一視することはできない。また、通常ロックが、本件発明のエンドロック防止機構で解除されることはない。
(3)について
特許請求の範囲には、発明の構成要件のみを記載すれば足り、作用効果まで記載する必要はない。
(4)について
請求人は慣性部材36の作用を誤解している。キャリヤ52は、半径方向に移動可能に支承され(公報第5欄第16行ないし同欄第19行参照)、また、キャリヤ52の突起68は、回転連動を可とする慣性部材36のディスク部72の開口74中に受け入れられている。このため、巻取軸18の回転が止まっても慣性部材36は慣性回転を続け、突起68を介してキャリヤの爪50をロックリング34の内歯46に係合させる。
(5)について、
高田重一郎は、本件発明の真の発明者である。請求人が主張するように、高田重一郎が発明者ではなく、また、特許を受ける権利を承継しないというのであれば、まず、請求人は真正な発明者が誰であるかを立証しなければならない。
4. 当審の判断
以下、請求人の主張を検討する。
(1)について
本件発明について、願書に添付された明細書を訂正することについての審判請求(平成4年審判第13565号)を認容する審決が確定しているので、本件発明の明細書の「巻取方向」(公報第1欄第17行、第3欄第33行)は、「引出方向」と訂正されている。
したがって、訂正後の本件発明の明細書の特許請求の範囲第1の「前記ロックリングと前記巻取軸とが連結されたとき前記ロックリングのベルト引出方向への回転により前記ラチェットホイールと係合する動作位置へ揺動され、」(公報第1欄第15行ないし同欄第18行)は、かかる審決で述べているように実施例と整合し、かつ実施例に裏付けられており、また、本件発明のかかる構成要件の構成は、発明の詳細な説明に当業者が容易に実施できる程度に記載されているので請求人の主張は理由がない。
(2)について
請求人が主張するクラッチ機構とは、本件発明の構成要件の「前記巻取軸に同軸的にしかし相対運動可能に取り付けられかつ巻取方向へ回転するようにばね力が付与された、内歯とカムスロットとを有するロックリング及び前記巻取軸と前記慣性部材との間に回転速度差が生じたとき、前記ロックリングの内歯に係合して前記ロックリングと前記巻取軸とを連結する係合手段を有するクラッチ機構と、」(公報第1欄第6行ないし同欄第13行)にかかわる構成である。
他方、本件発明のロック機構とは、本件発明の構成要件である「該巻取軸に同軸的に取り付けられたラチエットホイールと、」(公報第1欄第3行ないし同欄第4行)、「前記フレームに揺動可能に支承され、前記ロックリングのカムスロットに受け入れられるカムフオロアを有し、前記ロックリングと前記巻取軸とが連結されたとき前記ロックリングのベルト引出方向への回転により前記ラチェットホイールと係合する動作位置へ揺動され、前記ロックリングと前記巻取軸とが連結されたとき前記ロックリングのベルト引出方向への回転により前記ラチェットホイールと係合する動作位置へ揺動され、また前記ロックリングと前記巻取軸との連結が解かれたとき前記ロックリングのベルト巻取方向への回転により原位置へ揺動されるポールとを含み、」(公報第1欄第13行ないし同欄第21行)である。かかる構成要件によれば、ラチエットホイール24にポール26が係合してベルトの引き出しを阻止する機構となっているので、ここでいう通常ロックとは、安全ベルトとして車の衝突時などの際に安全機構として機能するロックのための機構である。
他方、安全ベルトとして、巻取終端から引き出して再び使用する際の阻害要因となるエンドロック防止機構として付加された本件発明の構成要件は、「前記カムスロットは、前記ポールが前記動作位置にある間に前記カムフオロアを運動させることなしに前記ロックリングの前記ベルト引出方向への回転を可能にする延長部分を有する、」(公報第1欄第21行ないし同欄第25行)である。
かかる構成要件から、ポール26のカムスロット48には、延長部分48aが余分に設けられているため、ロックリング34は延長部分48aの長さ分だけ引出方向に回転可能である。このため、慣性部材36が巻取終端で巻取軸18に遅れて反動でベルト引出方向にわずかに逆回転し、その回転に従動してロックリング34が引出方向ヘカムスロット48の延長部分48aだけ回転する結果、ロッリングの内歯46と係合手段とが解離し、ラチェットホイール24からポール26が外れ、エンドロックの発生が防止される。
これらのクラッチ機構、ロック機構、エンドロック防止機構は、本件発明の明細書において明瞭に区別できるにもかかわらず、請求人は「(本件特許明細書では「クラッチ機構」と言っている。以下「ロック」ともいう)」(審判請求書第12頁第8行ないし同頁第10行)と主張し、通常ロックと通常ロックの解除、エンドロックとエンドロックの解除の機能を混同させようとしているが、かかる主張は採用できない。
そもそも、通常ロック、エンドロックのいずれの場合においても慣性部材36と巻取軸18との回転速度差が生ずることによりクラッチ機構が作動している点、その結果、ポール26がラチエットホイール24の歯に係合しロック状態になる点では共通している。すなわち、通常ロック、エンドロックのいずれの場合も一のロック機構により発生するものであるが、その発生原因と、解除の機構は異なっているのである。
ここで、エンドロック解除の機構が機能しても、安全ベルトに引出方向の力が働いている限り、通常ロックが解除されないことは明白である。
したがって、安全ベルトを再び使用する際の阻害要因となるエンドロックとその解除機構は、安全ベルトとしての前提条件である通常ロックとその解除機構と異なるので、本件発明は、安全ベルトの機能をより高めていることから産業上利用することができる。
よって、請求人の主張は理由がない。
なお、請求人は、本件発明が、安全ベルトとして要求される本来の機能(通常ロック、エンドロック、通常ロックの解除、エンドロックの解除)を果たすことができないと主張しているが、本件発明の機能については、請求人が主張する無効理由
(3)と重複するので次で検討する。
(3)について
本件発明の明細書の特許請求の範囲1で慣性部材36とロックリング34間の構成は、「前記巻取軸に同軸的にしかし相対運動可能に取り付けられた慣性部材と、前記巻取軸に同軸的にしかし相対運動可能に取り付けられかつ巻取方向へ回転するようにばね力が付与された、内歯とカムスロットとを有するロックリング及び前記巻取軸と前記慣性部材との間に回転速度差が生じたとき、前記ロックリングの内歯に係合して前記ロックリングと前記巻取軸とを連結する係合手段を有するクラッチ機構と、」(公報第1欄第4行ないし同欄第13行)として示され、慣性部材36とロックリング34とは関連構成として示されているにとどまり、また、本件発明の明細書では、通常の衝突時などのロックとその解除、エンドロックの発生とその解除に分節して詳細に説明がなされていない。このため請求人は、要約すると、1)本件発明の明細書には安全ベルトの機能が示されていない、2)本件発明の明細書の特許請求の範囲1には慣性部材36とロックリング34がどのような動きをするかが記載されていない、と主張している。なお、ここで請求人が主張する「動き」とは、本件発明の「機能」あるいは「作用」であると解せられる。
そこで、まず本件発明の安全ベルトの機能(作用)を検討する。
通常ロックの発生
通常ロックには2態様が推定できる。
第一の態様の通常ロックは、車の衝突時などのように、ヴィークルセンサ78が作動し、かっ、ベルトが引出方向に引き出されたとき起きるものである。この場合、ヴィークルセンサ78の作動により、センサ78の作動爪80が慣性部材36の外歯付きリング76の外歯に係合し、慣性部材36を停止させる。一方、乗員の前方への慣性移動によりベルトが急に引き出されることから巻取軸18がベルト引出方向に回転し、慣性部材36と巻取軸18との間に回転速度差が生ずる。すると、クラッチ機構が作動して、ポール26がラチェットホイール24の歯に係合し、ロック状態になる。(特に、公報第4図と第5欄第31行ないし同欄第39行参照)
第二の態様の通常ロックは、ベルトが、たとえば乗員の手により、勢いよく引き出されたときに起こるものである。ベルトが引出方向に勢いよく引き出されると、それに伴い、巻取軸18がベルト引出方向に回転する一方、慣性部材36はその慣性により、静止状態を保とうとするので、両者に回転速度差が生ずる。その結果、クラッチ機構が動作して、ポール26がラチェットホイール24の歯に係合し、ロック状態となる。
そして、かかる通常ロックでは、ベルトに引出方向の力が働いている限り、ポール26とラチェットホイール24の歯との係合は外れることがなく、ロック状態は保たれる。(特に、公報第3、4、5図と第5欄第40行ないし第6欄18行参照)エンドロックの発生
これに対し、エンドロックは、ベルトの巻き取りが終了して巻取軸18がばね力による回転を一旦停止したのちもなお継続する慣性部材36の慣性回転により慣性部材36と巻取軸18との回転速度差が生じてクラッチ機構が作動し、さらに、巻取軸18の反動による逆方向すなわち引出方向への回転およびこれによる慣性部材36の同方向への時間差を伴う回転により、クラッチ機構がラチェットホイール24にポール26を係合させかつクラッチ機構がこの作動状態を維持させられることによって生じる。この状態下ではベルトが巻上がった状態(緊張した状態であり、引出方向、巻取方向のいずれの方向にもベルトが動かない。)で巻取軸18は引出方向への回転を阻止されており、ベルトを引き出すことはできない。(特に、公報第3、4、5図と第2欄19行ないし同欄第29行参照)
通常ロックの解除
第1、第2の通常ロックの解除は次のように行われると推定できる。
まず、ベルトに引出方向の力が働いている限り、巻取軸18と慣性部材36との間に回転速度差がなくなり、たとえクラッチ機構が解除されたとしても、ポール26とラチェットホイール24の歯との係合は解除されることがなく、ロック状態は保たれる。
そして、衝突後あるいは急ブレーキ後、車が停止すると、ベルトへの引出力が解除される。
そこで、巻取軸18と慣性部材36との間に回転速度差がなくなった時点でベルトを緩めると、爪50はコイルスプリング66の作用によりキャリヤ52が第3図の位置に復帰して内歯46との噛合を解き、(第一の通常ロックの場合は、ヴィークルセンサ78の作動爪80が慣性部材36の外歯付きリング76の外歯から外れ)ロックリング34は、ばね力により巻取方向の原位置に向けて回転し、カムフォロア30を原位置に復帰させてポール26をラチェットホイール24から引き離し、ラチェットホイール24と巻取軸18との回転を自由にする。
このように、通常ロックの場合、カムフォロア30は、第3図の状態から第5図に移動し、通常ロックの解除の場合は、第5図の状態から第3図の状態に復帰するだけであって、カムスロット48の延長部分48aには移動しない。(特に、公報第3、4、5、6、7図と第5欄第31行ないし第6欄第18行参照)
エンドロックの解除
エンドロックの場合通常ロックの場合と異なり、ベルトを巻き取ることが不可能な状態であるため、本件発明のようなエンドロック解除機構が必要となる。
まず、ベルトの一端が乗員の手によりバックルから解放され、巻取軸18に巻き取られて格納を完了したとき、慣性部材36は、その慣性力により、さらに巻取方向に回転する。
一方、巻取軸18は、ベルトの格納を完了したときに一旦停止し、その瞬間に、停止した反動で、ベルト引出方向に回転する。
この慣性部材36の巻取方向への回転と巻取軸18の引出方向への回転との回転速度差により、ロックリング34の内歯46と係合手段とが係合して、クラッチ機構が働き、ラチェットホイール24にポール26が噛み、エンドロックが発生しようとする。
ところが、ロックリング34のカムスロット48には、延長部分48aが余分に設けられているため、ロックリング34は延長部分48aの長さ分だけ引出方向に回転可能である。
このとき、前記慣性部材36が反動で巻取軸18と時間差をもって巻取方向の回転からベルト引出方向に逆転し、その回転に従動してロックリング34が引出方向へ回転する結果、ロックリングの内歯46と係合手段とが解離してクラッチ機構が解除し、ロックリング34がばね力により巻取方向に回転復帰することにより、ラチェットホイール24からポール26が外れ、ロック機構を解除し、エンドロックの発生が防止される。(特に、公報第3、4、5、6、7図と第6欄第19行ないし第7欄第17行参照)
なお、請求人は、審判事件意見及び証拠補充書でかかるエンドロック解除の機構の効果がないことを立証するために被請求人が行った実験結果を提出し、延長部分48aがない場合にはエンドロックの回避率が25%(甲第4号証の実験報告書の、2 実験結果の概要によれば、25.2%)で、請求人が本件発明に該当するという製品については36.4%にすぎなかったと主張し、延長部分48aが存在したとしてもわずかにエンドロックを回避するだけであるから、効果がないと主張している。すなわち、エンドロックをほとんど完全に回避するのでなければ効果があるとはいえないと請求人は主張するが、たとえ10%強でもエンドロックの発生を防止することが改善できれば、乗員の安全ベルトの着装を高めることが期待できるから、請求人が、本件発明に効果がないとする主張は理由がない。
したがって、本件発明の明細書から本件発明の機能は明瞭に理解することができるから、上記1)の、本件発明明細書は安全ベルトの機能が示されていないとする請求人の主張は理由がない。
つぎに、特許法第36条第5項は、特許請求の範囲には、発明の詳細な説明に記載した発明の構成に欠くことができない事項のみを記載しなければならないと規定している。
かかる規定は、特許請求の範囲には、発明の必須構成要件のみを記載しなければならないとを明記し、反対に、必須構成要件以外の事項、たとえば発明の目的、作用効果を記載することを厳しく排除していると解される。
そもそも、発明の作用効果は、発明の詳細な説明で述べられる事項(特許法施行規則第24条様式第29備考14ロ、ハ参照)であり、必須構成要件のみを記載すべき特許請求の範囲に重ねて記載する必要はない。
したがって、本件発明が、慣性部材36とロックリング34の関係について、「前記巻取軸に同軸的にしかし相対運動可能に取り付けられた慣性部材と、前記巻取軸に同軸的にしかし相対運動可能に取り付けられかつ巻取方向へ回転するようにばね力が付与された、内歯とカムスロットとを有するロックリング及び前記巻取軸と前記慣性部材との間に回転速度差が生じたとき、前記ロックリングの内歯に係合して前記ロックリングと前記巻取軸とを連結する係合手段を有するクラッチ機構と、」(公報第1欄第4行ないし同欄第13行)と記載されている以上、慣性部材36とロックリング34とは、機能的表現であるものの、関連構成が明瞭に示されており、本件発明の明細書の特許請求の範囲1には、必須要件が記載されている。
したがって、上記2)の特許請求の範囲1には慣性部材36とロックリング34がどのような動きをするかが記載されていないとする請求人の主張は理由がない。
(4)について
請求人は、本件発明の明細書の特許請求の範囲1の末尾の構成要件である「前記カムスロットは、前記ポールが前記動作位置にある間に前記カムフオロアを運動させることなしに前記ロックリングの前記ベルト引出方向への回転を可能にする延長部分を有する」(公報第1欄第21行ないし同欄第25行)は、実施不能であり、また、本件発明は、全体として発明未完成である理由として、慣性部材36はその回転遅れにより、キャリヤ52を、その爪50がロックリング34の内歯46と係合する位置にまで移動させ、そして、それにょりロックリングを動かして、ポール26がラチェットホイールの歯24に係合し、巻取軸18の引出方向への回転を止める。巻取軸18の回転が止まると、突起68を介してキャリヤ52と連動している慣性部材36も静止せざるを得ない、としている。
しかしながら、慣性部材36は巻取軸18に対し回転運動可能であり(公報第4欄第35行ないし同欄第37行参照)、この慣性部材36はディスク部72と外歯付きリング76を含んで(公報第5欄第31行ないし同欄第36行参照)いる。
一方、キャリヤ52はロックリング34のディスク状部54の外側で巻取軸に固定されたリテーナ56上に半径方向に移動可能に支承されている(公報第5欄第15行ないし同欄第19行参照)。キャリヤ52はまた突起68を有し、該突起は第4図に示すように慣性部材36のディスク部72に設けられた開口74中に受け入れられている(公報第5欄第31行ないし同欄第34行参照)。巻取軸18が停止すると、慣性部材36は慣性回転を続ける。このとき、請求人はキャリヤ52も止まり、突起68を介して慣性部材36の回転も停止するとしているが、本件発明では、キャリヤ52は半径方向に移動が可能であるので止まらない。もしキャリヤが半径方向に移動が不可能であれば、突起68により慣性部材36の回転は停止させられるが、キャリヤ52は半径方向に移動可能であるため、慣性部材36の慣性力は、突起68を介してキャリヤ52を半径方向に移動せしめる方向に働く。
このため、慣性部材36の回転に伴ってキャリヤ52が半径方向に移動し、キャリヤ52の爪50がロックリング34の内歯46に係合し、その結果、ポール26とラチェットホイール24が係合する(公報第5欄第42行ないし第6欄第9行参照)。
したがって、本件発明のかかる構成要件の構成は、実施不能であるということはできない。
請求人は、さらに実施不能である理由として、巻取軸18も慣性部材36もこのとき回転を停止することになる。そして、慣性部材36と巻取軸18の回転が停止すれば、慣性部材36がキャリヤ52をロックリング34の内歯46に押し付ける力は作用しないから、キャリヤ52は公報第3図に示されているようにバネ66により引戻されてクラッチが外れる。そして、ロックリング34と巻取軸18の連動も解除されるから、ロックリング34は回転自由となり、ポール26をラチェットホイール24に押し付ける力を失う。ロックリング34にはバネ66が付いていて、クラッチが外れるとポール26をラチェットホイールから引き離す方向に動く、と主張している。しかし、これは、慣性部材36が巻取軸18に対し回転不可能であることに基づいて本件発明の作用を推定しているものであるから、かかる主張には根拠がない。
加えて、請求人は、実施不能である理由について、本件発明のカムスロット延長部分48aがエンドロックを解除する作用を果たすためには、エンドロックが発生した時点に於いてロックリング34がベルト引出方向に回転しなければならないがロックリング34をこのように回転せしめる手段の説明がないと主張しているが、「本発明は、これを防止するために、ラチェットホイール24にポール26が係合していったんロック状態になったのちに、なお継続する慣性部材36の慣性回転を利用してロックリング34を回転させ、これにより爪50を内歯46から解除し、ロックリングの引き続くばね力による復帰運動を可能にする」(公報第6欄第23行ないし同欄第29行)という記載から、慣性部材36がロックリング34を回転させる構成が示され、また、それらの間の作用は無効理由の検討の(3)で既に示している。さらに、公報第3、4図を参酌しても、慣性部材36がロックリング34を従動させる構成は、明瞭に示されている。
したがって、本件発明は発明として未完成であり、実施することができない、または、当業者が本件発明を実施することができないとする主張は理由がない。
(5)について
請求人は、本件発明の発明者である高田重一郎は、真の発明者ではなく、また、特許を受ける権利を承継していないと主張しているが、請求人は、真の発明者を特定しておらず、また、特許を受ける権利を承継していないことを直接立証する証拠方法も提出されていないから、請求人の主張は採用できない。
なお、請求人は上申書を提出し、技術説明のための面接を求めているが、本件の審理は、職権により書面によることをすでに通知しており、また、本件発明の技術内容は、本件発明の明細書および図面から明瞭に理解できるので、あらためて技術説明を受ける必要はない。
5.むすび
したがって、請求人が主張する理由および証拠方法によっては、本件特許を無効とすることはできない。
よって、結論のとおり審決する。
平成7年12月11日
審判長 特許庁審判官
特許庁審判官
特許庁審判官
別紙2
(5) 特許審判請求公告 757
<省略>
別紙3
図1b
図1aのキャリヤとロックリング内歯との係合部の拡大図を示す。キャリヤが、クラッチ作動状態(実線状態)から、解除位置(点線状態)に動こうとすると、ロックリングの内歯に干渉部分があるため、キャリヤはこの部分を押しのける。即ちロックリングを反時計方向(ベルト引き出し方向)にわずかに回転させる。この回転後のロックリングの内歯の位置を点線で示す。
図2b
図2aの、キャリヤとロックリング内歯との係合部の拡大図。キャリヤがクラッチ作動状態(実線状態)から解除位置(点線位置)に動くとき、ロックリングの内歯とはなんら干渉せず、ロックリングを反時計方向(ベルト引き出し方向)に回転させることはない。
<省略>
図3
図1aの状態(クラッチが係合し、ロックしている状態)で、ベルト(図示せず)を巻き取り方向に動かし、巻き取り軸をわずかに巻き取り方向に回転させたときの図。
<省略>